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[コラム]ケンブリッジの学生演劇(2・完)
ADC(Cambridge University Amateur Dramatic Club;ケンブリッジ大学アマチュア演劇クラブ)は1800年台に現在のパーク・ストリートにあるADCシアターから数百メートルはなれた「フープ・ホテル」と呼ばれたコーチ・ハウス内に設立されました(訳注:コーチ・ハウスはもともと馬車などを収容する建物で、現在はゲスト・ハウスやガレージなどに改装されて使われているようです)。ここで夕食後などにヴィクトリア朝期の舞台が披露されました。大火災によって場所が移動したのち、ここからジョン・クリーズやイアン・マッケラン、エマ・トンプソン、レイチェル・ワイズ、スティーヴン・フライ、デレク・ジャコビなど多くの有名な俳優や監督が輩出されました。

ケンブリッジではどんな人でも演劇に参加できます。技術スタッフとして参加したいのであれば、ほとんど競争もないので申請すればたいてい受かります。役者のオーディションは週末などにかけておこなわれ、2次審査は数日後におこなわれることが多いです。ADCシアターでおこなわれるメインの舞台や、シェークスピア劇などでは特に競争が激しくなりますが、他にもたくさんの劇があるのでなにかしらの役を演じることはできます。しかし、ケンブリッジでもっとも競争が激しいのは監督かもしれません。なにせ1つの劇に10人役者がいても監督はたった1人ですから(笑)。

ADCのようにケンブリッジにあるすべてのカレッジにまたがる演劇サークルのほかは、だいたいの場合それぞれのカレッジ単位で組織されています。例えばクィーンズ・カレッジのバッツ(The Bats)、ペンブルック・カ レッジのペンブルック・プレイヤーズ、エマニュエル・カレッジのレッズ(REDS;Revived Emmanuel Dramatic Society)などです。これらの組織は資金提供が主な役目で、著作権やその他の権利関係やセット、衣装などの費用を出し、チケット販売の売上の一部を貰い受けるなどといったことをおこないます。そしてもし運がよければ費用と売上が±0になります(笑)。しかし、他にもいくつかの役割があり、創作脚本を奨励するための委員会が常備され、また新入生を勧誘するなどといったこともしています。

ケンブリッジの学生演劇はスタイルやジャンルが多岐にわたっていて、ミュージカルから喜劇、ダンスやパントマイム、人形劇などがあり、また学生演劇は「実験的」であることでも知られています。もっとも、「実験的」という標語は現在の学生演劇でなく80年代ごろのものによりあてはまるかもしれません。リハーサルは3週間から10週間かけておこなわれ、講義やレポート作成に支障がでないように夜におこなうことが多いです。ただ最終週の通し稽古や技術スタッフの最終的な打ち合わせの時期になると勉強より劇を優先するかたちになってしまうことが多々あります。

ケンブリッジでは3つの非常に成功している演劇ツアーをおこなっています。クリスマス休暇のあいだにETG(European Theatre Group)がおこなうヨーロッパ公演や、毎年夏の間スコットランドで催されるエディンバラ・フェスティバル・フリンジへの参加、そして初秋にはCAST(Cambridge American Stage Tour)がアメリカ西海岸で公演します。ペンブルックプレイヤーズ・ジャパンツアーはまだ今年が2年目で、今は解散してしまったペンブルックプレイヤーズ・ドイツツアーを引き継ぐ形になっています。ジャパンツアーが開かれるようになった経緯は、とても評判がよかったオックスフォード大学のジャパンツアーに触発されたのでなく、恐らくは元からペンブルック・カレッジが日本とのつながりが深いからだと思います。さいわい日本では両方のツアーともに関心が集まっており、私たちはシェークスピア劇を自分たちの母国語を使い、地球の裏側の国で披露するまたとない機会を得ることができました。ペンブルックプレイヤーズ・ジャパンツアーに栄光あれ!

(ヒッポリタ/ティターニア:メーガン・プロッサー、訳:小菅新)


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| コラム | 02:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[コラム]ケンブリッジの学生演劇(1)
今回のツアー・メンバーの中でも演劇経験が長く、またADCシアターの運営にも携わっているメーガンさんに、イギリスにおける役者へのキャリアパス、そしてケンブリッジでの学生演劇のあり方についてエッセイを書いていただきました。少々長いので、二回に分けて掲載します。翻訳は小菅新さんにご協力いただきました。

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イギリスの数ある大学のなかで、ケンブリッジほどにレベルの高いところはわずかしかありません。もちろん、大学学部での短い期間、あるいはキャリアとしての長い期間を演劇にたずさわりたいと思う高校を卒業した人にとって、オックスフォードやダラム、ブリストルやエディンバラもとても人気があります。しかし、セミプロと呼べるほどに充実した劇場をもち、ケンブリッジの中心に他に5つ以上の活気あふれる学生劇場(400人収容できるクィーンズ・カレッジのものから、コープス・クリスティ・カレッジにある定員70名のスタジオまで)をもつケンブリッジ大学は、長らくイギリス演劇、また最近ではイギリス映画を支える人材を世に送り出してきました。

天性の才能があり、何の訓練を積まないままブレイクするような役者も当然いますが、イギリスでは一般的にプロの役者になるには主に3つの方法があると考えられています。

1つ目の方法として、イギリスでは16歳以下の人たちが通う演劇学校がたくさんあります。そのなかにはシルヴィヤ・ヤング(Sylvia Young Theatre School)のように演劇専門の学校もあれ ば、ステージコーチ(Stagecoach Theatre Arts)みたいに普通の学校のあとや週末などに通うものまであります。親は演劇に非常に熱心な子をこのような学校に行かせ、そこから子どもは映画やBBC(イギリスの公共放送局)、広告やコマーシャルなどに起用されることがたびたびあります。どの起用方法でも演劇界でキャリアを築きたい人にとってはよい形だといえます。

2つ目、3つ目の方法はいずれも高校を卒業したあと、あるいは大学を卒業したあとに通う演劇大学であり、有名なものとし てはRADA(Royal Academy of Dramatic Art;王立演劇学校)、LAMDA(London Academy of Music and Dramatic Art)、そしてギルドホール音楽演劇学校(Guildhall School of Music and Drama)などがあります(なお、大学卒業後のほうが在籍する年数が少ないです)。しかし、これらの学校は授業料が破格に高いうえ、物価など生活費がたくさんかかるロンドンにあることが多く、また入学する際の競争率がしれつを極めます(RADAは毎年定員25人に対し応募者は6000名ほどです)。そして、この業界で必要となる人材は男性である場合が多く、学校側も男性をより多く入学させます(シェークスピア劇の登場人物の男女比は男13:女2です)。

(続く)


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| コラム | 02:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[コラム]『夏の夜の夢』日本公演の技術チーム
同じ演劇でも一つの場所を拠点に複数回の公演をするのと、各地の会場を回って公演するツアーとでは、裏方にも独特な負担があります。今回は舞台監督のジェマさんに、『夏の夜の夢』日本公演の技術チームについて、エッセイを寄せてもらいました。なお翻訳は小菅新さんにご協力いただきました。

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ツアーで各地を回る劇団の一員でいるのと、学生演劇に参加するのとではまったく体験が異なります。ケンブリッジ大学のアマチュア演劇クラブ(訳注:Amateur Dramatic Club(ADC)はイギリス最古の学生劇団)ではひとつひとつの公演にたくさんの技術スタッフがいます。そしてスタッフの役割は明確に分けられています。たとえば、プロダクション・デザイナーは劇の美術的な部分を担当し、マスター・カーペンターはセット作りを担います。また技術監督は照明デザイナーや照明・音響スタッフなどで構成される技術チーム全体を指揮します。この形ですとスタッフひとりひとりが専門職を持つことになりますが、今回のペンブルック・プレイヤーズの日本ツアーではそれぞれが複数の異なるスキルを身につけることが必要でした。

『夏の夜の夢』日本公演の技術チームは技術監督のエリオット・ウォード、そして舞台監督である筆者ジェマ・ブレィディです。私たちの仕事は公演の技術面に関することが中心です。舞台で使う機械・装置などの貸し出しや運搬、「登場・退場」に使う照明の調整、大道具・小道具を借りたり、作ったりすること、そして上演中に照明や音響機材を操作することなどが含まれます。しかしその一方でセット作りや照明デザインなど、今までやったことがない作業もおこなう中で自分たちのスキルの幅を広げられました。舞台セットはハチの巣状のボード紙を適当な大きさに切ってつくり、持ち運びがしやすく各地のさまざまな公演会場に対応できるように工夫しました。

私たちはすでにロンドンで2回講演をしており、ひとつは劇場で、もうひとつはペンブルック・ハウス内の教会ホールを使いチャリティ公演をおこないました。前者は演劇用の大きな舞台、後者はふつうの空き部屋を使ったので演劇をおこなうスペースにはかなり差があり、まったく異なる空間で同じ劇を見せるには調整が必要でした。舞台セットを一からつくるのは大変であると同時に面白かったです。日本でも異なる公演会場でどれほど調整がうまくできるか楽しみです!


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| コラム | 17:17 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[コラム]ヴィクトリア朝のミュージックホール
ある種の世界観を舞台上に凝縮して表現する演劇では、役者の演技や衣装、舞台装置に加えて音楽が非常に重要です。『夏の夜の夢』の音楽で有名なのはやはりメンデルスゾーン、特に「結婚行進曲」などは皆さん一度ならず耳にしたことがあるでしょう。ケンブリッジ大学ペンブルックプレイヤーズによる『夏の夜の夢』でも、音楽に工夫が凝らされています。作曲家兼音楽監督のフィン・ビームス君に音楽面でのコンセプトについて説明してもらいました。

ちなみに、フィン君が挙げているミュージックホールは、元々は芝居や音楽などの娯楽を提供する「フリー・アンド・イージー」と呼ばれたパブから発祥しています。1843年の劇場法改正を受けて登場し、1878年時点でグレイター・ロンドンには347箇所、大きいものでは二万人収容のホールもありました。労働者を代表とする大衆文化の殿堂となり、世紀末には好戦的愛国主義とも訳されるジンゴイズムの高揚を支えていました。(詳しくは井野瀬久美惠『大英帝国はミュージック・ホールから』参照)

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ヴィクトリア朝のミュージックホール: 作曲のインスピレーション

19世紀の間に、娯楽を楽しむ方法は急速に変化していました。声を押し殺した観客が、今ではキャバレーや寄席とでも呼ぶような、ミュージックホールの席という席を埋め尽くしていたのです。パブや飲食店とは別に、流行歌や世界中のコメディ劇、古典劇の抜粋などを楽しみながら観客が食事や飲み物を注文できるように、小さなテーブルがひしめく巨大なホールが登場しました。『夏の夜の夢』もまた、まさにそうしたミュージックホールで演じられていたであろう演目の一つです。

私たちが演じるシェイクスピアの古典劇はこのミュージックホール人気の絶頂期を舞台に据えており、私は劇音楽を担当するにあたって当時のスタイルを特に参考にしています。明るく騒々しい、ノリの良い歌がヴィクトリア朝の観客に好まれていましたが、[現実と夢の世界が交錯する]劇のより流動的な要素を表現するため、私は今となってはあまり知られていない当時の流行を取り上げることにしました。ミュージックホールでの演目は、しばしば突飛で、耳に残り、エキゾチックなものでもありました。ヴィクトリア朝の大衆が世界に目を向けるにつれ、異国のものは何であれ直ちに人気を得、見る価値のあるものと見なされたのです。当然の如く、多くのイギリスの芸術家は客を引きつけるためにより魅力的な異民族の装いを取り入れました。しかしながら、今これらの演目を振り返ってみると、そこにはそこはかとない悪意が見てとれます。植民地化と帝国が未だ世界を覆う時代にあって、これら芸術家たちに真似される人々の正当な権利と彼らが値する尊敬には、人々は目をつぶっていたのです。それはちょうど『夏の夜の夢』に登場する恋人たちがオーベロンの花によって目を眩ませられたかのようでした。

そこで、ミュージックホールのあらゆる興味深い要素と私たちが扱う『夏の夜の夢』のテクストを取り入れるため、私は様々なスタイルを混ぜ合わせた音楽を用いることにしました。それは、薄気味悪くて陽気な、穏やかでありながらどこか落ち着かない、といったものです。その当時に作られた曲を用い、また編曲や補足することによって、ある種独特な音楽シーンを創り出すことができるのではないかと願っています。そうした音楽は私たちがヴィクトリア朝の劇場へと浸りつつ、かつての娯楽がどのようなものだったであろうかという現代的な視点を保つことを可能にするでしょう。半面に笑顔を浮かべつつ、半面でしかめっ面をしながら歌われるたぐいの歌−それはたぶん、少し夢に似ていたのかもしれません。

(作曲・音楽監督:フィン・ビームス、キングスカレッジ)


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| コラム | 22:25 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[コラム]夢から夢へ(3・完)
映画の時代の到来は、注目すべき二つの『夏の夜の夢』映画を生み出しました。ひとつは1935年のマックス・ラインハルトとウィリアム・ディタ―レによるものと、もうひとつはピーター・ホールが1959年にストラトフォード・アポン・エイヴォンのロイヤル・シェイクスピア・シアターで上演した『夏の夜の夢』を映画化したもので、これは10年後の1968年に発表されました。1935年のものは撮影にクローズアップ(接写)を取り入れたことが評価されました。16世紀では貴族たちは舞台上に座り、間近に劇を見ることができたのですが、それ以後そのような役者と観客たちが直接に触れるような距離感はなかったのでした。ホールによる『夏の夜の夢』の解釈は1935年の映画とはまったく異なるもので、メンデルスゾーンの劇中曲をなくし、せりふも大幅にカットしました。

しかし演劇界が危惧したように『夏の夜の夢』がその魅力をすべて失ったわけではありませんでした。1970年、ピーター・ブルックがロイヤル・シェイクスピア・カンパニーを率いて上演した、独創的でのちのちまで影響を与えることとなる『夏の夜の夢』が登場しました。「演劇というものがある限り、いつまでも語り続けられるだろう」とまで言われたこの作品の舞台セットは大きな白い箱、スカッシュコートのようなもので、観客の想像を迎え入れようとしているかのようでした。ブルックはまたオベロンとシーシアス、ティターニアとヒッポリタ、パックとフィロストレート、イージーアスとクィンスをそれぞれ一人二役にまとめました。劇の最後の部分で、観客の目の前でフィロストレートはパックに「変身」し、彼がエピローグを話すときには会場のあかりはすべてついた状態になっています。また役者たちは自分たちの出番でないときは「スカッシュコート」の周りのバルコニーから劇を見学しているのです。これまで演出上隠されていた部分は役者も含め全て観客の目に晒され、ふたたび直接触れ合うような距離感が生まれました。

20世紀の終わりごろ、さらにふたつの独創的な『夏の夜の夢』が発表されます。ブルックの斬新な上演に応える形で、ロン・ダニエルズは1981年にロイヤル・シェイクスピア・カンパニーのために新しい『夏の夜の夢』を書き、それは物語のなかでつくられた不思議で残酷な世界に着目したものでした。彼の描く妖精は木製のあやつり人形で、それらはちょうどホラー映画に出てくるようなヴィクトリア朝の人形をほうふつさせるものでした。妖精の国は劇の舞台裏のようなところとなり、こわれたセットやひっくり返されたはしごなども置かれていました。ブルックの『夏の夜の夢』とは逆の手法をとりながらも、ダニエルズのメッセージはブルックの作品への応答でした。そのメッセージとは、演劇は幻想であり、夢へのメタファー(暗喩)でもあるということ、そしてダニエルズの『夏の夜の夢』自体が演劇に対するメタ演劇(超演劇)だということです。1992年のロバート・レページによる『夏の夜の夢』は、ブルックとダニエルズの演劇論をすべて理解した上で、それをひっくり返し、1590年以降の上演の牧歌的な森の表現に寄り添うものでした。レページは英国国立劇場に水の入った大きな円形状のプールを置き、その周りに泥を敷きました。それがレページの舞台セットの全てでした。その舞台セットによってかもし出される風景はシェイクスピアの描いた魔法の森のように自然であると同時に人工的でもありました。セットは上演のたびに役者たちがその上を走ったり、跳んだり、お互いを追いかけたりするなかでかき乱されました。そして舞台を照らすライトが消え、役者たちが帰ってしまうとセットは静かになり、かすかにうなりながら、『夏の夜の夢』と同じようにふたたび起こされ、そしてかき乱されるときを待ち続けるのです。

(スナッグ/コブウェブ(蜘蛛の巣)役 兼 演出助手:ローレン・クーニィ、セントキャサリンズカレッジ/訳:小菅新)

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| コラム | 07:34 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[コラム]夢から夢へ(2)
18世紀から19世紀にかけては作品のあまり喜ばしくない部分が強調されることもありました。さきほどの『妖精たち』や他のいくつかの上演作品ではヒッポリタの名前は登場人物の紹介には記されているのですが、実際の劇の中では一言もせりふを与えられませんでした。これらの作品に登場するヒッポリタの従順な、しずかな存在感からは、この劇が人間のすべての性質を表現していることを思い知らされます。この場合にはヒトの陰険な部分、信頼できない部分、そしてとても見過ごすことのできないほどにいやな部分などです[訳注:18−19世紀当時、夫に黙って従うことが常とされている男尊女卑社会であったイギリスでは、ヒッポリタが夫のシーシアスに異論を唱えるさまなどは物議を醸すこととなり、結果ヒッポリタのせりふ部分を削るなどされたことを指しています]。観客や監督たちは劇のなかでの「光」と「闇」の綱の引き合い・攻防を楽しむことができますが、劇の終結の仕方からはいくつかの疑問点が生じてしまいます。オベロンがティターニアに対しておこなった残酷でこっけいな仕打ちは許されるのか、また惚れ薬によってヘレナを「愛している」ディミートリアスは果たして本心から愛しているのか、といったものがそうです。これらのような疑問が20世紀での心理描写が複雑な『夏の夜の夢』の上演につながることになりました。

そのような『夏の夜の夢』が登場することとは別に、20世紀前後の上演では派手な演出に凝ることが多くなりました。劇の中で描かれる世界が「天上の星も、その歌の調べを聴こうとして、狂おしく騒ぎたったものだ。」〔シェイクスピア・著、福田恒存・訳『世界の文学(1)』(1963、中央公論社)p.480〕、「あちこちにさまよい歩く亡霊どもも、家路をたどって墓地に帰るとか。」〔シェイクスピア・著、福田恒存・訳『世界の文学(1)』(1963、中央公論社)p.508〕といったものだったからかもしれません。1895年に発表された『夏の夜の夢』をパントマイム調で表現した上演をジョージ・バーナード・ショーが見た際のレビューでは、妖精たちが「携帯電池と白熱電球」を身にまとい、「新しいおもちゃを与えられた子供のように電球をチカチカと消したり、つけたり」していたと書いております。これは「派手さ・豪華さ」の解釈を完全に間違えたものでした。

その一方でハーバート・ビアボム・ツリーが20世紀の幕開けの1900年1月に発表した『夏の夜の夢』はこれ以上ないくらいにきらびやかなものでした。タイム紙のレビューでは「(ツリーの)アテネ近郊の森ほどに美しい演劇の舞台はこれまでになかった。(中略)タイム(たちじゃこう草)と野花が敷きつめられ、やぶや草むらには花が咲き開いており(後略)」とかかれました。舞台は想像力を思いきりはたらかせる場となり、20世紀前半の上演は『夏の夜の夢』の非現実的世界をいかに物理的に表現できるかについて試行錯誤がくり返されました。ロンドンの舞台には大きなはりぼての木が設置され、その大きさは大人の妖精役の人が小さく見えるほどでした。これらが高じた結果、1925年頃には『夏の夜の夢』ほとんど何もないステージで上演されるようになり、役者たちが演じるためのスペースのほかには森を表現するための緑色のカーテンがあるだけでした。

(続く)


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| コラム | 07:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[コラム]夢から夢へ(1)
今日は、『夏の夜の夢』が16世紀から現在にかけてどのように演じられてきたか、について演出助手のローレンさんに解説していただきます。ローレンさんはスナッグ及びコブウェブ役で出演もしています。同じ『夏の夜の夢』とはいえ、これだけ多様な演じられ方をしているんですね。既に多少イメージを伝えてもらってはいますが、ペンブルックプレイヤーズの『夏の夜の夢』が具体的にどう表現されるのか気になる所ではあります...

翻訳については小菅新さんにご協力いただきました。本コラムは3回に分けて掲載します。なお、原文をお読みになりたい方は続きを読むをクリックしてください。

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夢から夢へ:『夏の夜の夢』上演の歴史

(ヒッポリタ『夏の夜の夢』第5幕・第1場より)
「こんな馬鹿々々しい芝居ははじめて。」〔シェイクスピア・著、福田恒存・訳『世界の文学(1)』(1963、中央公論社)p.527〕

しかしそんな馬鹿々々しいものが、4世紀以上にわたって演劇監督や役者、そして観客たちを魅了しつづけています。『夏の夜の夢』はファンタジーと現実の競演、そして一方がそのまた一方へと変わる様子を描いた劇であり、まさに「恐しい一夜の夢」なのです。〔シェイクスピア・著、福田恒存・訳『世界の文学(1)』(1963、中央公論社)p.514〕

この劇は「愛」についての作品でもあり、夏至の頃にイギリスで伝統的におこなわれているお祭りを題材のひとつとしています。エリザベス1世のころ、そのお祭りが若い女性たちの一生に一度の真実の愛を発見するものだったことをもとにしているのです[訳注:夏至の晩に若い女性たちがノコギリソウを枕の下に敷いて寝ると、夢に将来の結婚相手が登場するという言い習わしがあったようです]。史料などによると、『夏の夜の夢』の最初の上演は1590年代のなかばにおこなわれたらしく、若い廷臣(宮廷に仕える者)の結婚式を祝うために披露されたようです。作品のはかない詩的な美しさが17世紀を通じて支持をあつめ、1660年の王政復古以後は歌や楽器演奏をとりいれるために脚本の大幅なカットや編集がおこなわれました。1692年に『夏の夜の夢』は『妖精の女王』というタイトルのオペラにもなりました。

18世紀から19世紀にかけては音楽が『夏の夜の夢』のなかで重要な役割を果たしました。18世紀のものとして知られている限り最初の作品が1755年の『妖精たち』で、デヴィッド・ギャリックとゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルの弟子だったジョン・クリストファー・スミスによってつられたオペラ作品です。『妖精たち』にはシェイクスピアのつくった歌のほかに、彼と同時代のジョン・ミルトンやジョン・ドライデンのものも盛り込まれました。音楽面で最大の影響を与えたのがフェリックス・メンデルスゾーンによる1826年の楽曲で、これはその後何世紀にも渡って上演された何百もの『夏の夜の夢』に影響を与えることとなりました。

(続く)

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[コラム]イギリスの階級社会
ヴィクトリア朝のイギリス」、ケンブリッジ大学ペンブルックプレイヤーズ・ジャパンツアー誕生の謎に迫る「けど、もしかしたら...」に続く、カレッジ・リエゾン担当のアレックス君によるコラムをお届けします。翻訳については大込学さんのご協力をいただきました。なお、原文をお読みになりたい方は続きを読むをクリックしてください。

>UK-JAPAN2008掲載記事をご覧の方へ
[コラム]舞台装置作り(1)に続く記事、[コラム]舞台装置作り(2)[コラム]舞台装置作り(3・完)は、UK-JAPAN2008のサイトには転載されていませんが、既にアップロードされています。こちらもぜひご覧下さい。

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イギリスの階級社会

イギリスが「階級社会」であるというイメージは今や深く根付いていますが、いつもそうだったという事ではありません。実のところ、20世紀に入ってからの三四半世紀(75年)の方が、ヴィクトリア女王の治めていた時以上に、イギリス人の階級意識がよりはっきりと区別されていたのです。これには人々の読み書きの向上によるところが大きく、とりわけラジオの発明の影響が大きかったと言えるでしょう。ラジオは、地域の枠を越えて人々が他者の存在を意識することを初めて可能にしたのです。「階級」という概念すらも18世紀の終わりにようやく考え出されたに過ぎません。社会を様々な「地位」と「秩序」から成り立っているとする古い考え方から生じてきた「階級」概念は、ヴィクトリア朝半ば、マルクスとエンゲルスに代表される、様々な労働者運動によって用いられるようになって初めて大きな影響力を持ったのでした。

もちろん、多くのヴィクトリア朝を代表する人々―例えば、首相のベンジャミン・ディズレーリなど―は、「二つの国民」(お金持ちと貧民)の誕生[訳注:貧富の差の拡大]を気にしており、地主と労働者がお互いの利害が必ずしも対立しないと認めあえる、より有機的な社会を築こうと努力しました。ここでディズレーリとその友人達は、中世に存在したと信じられていた物事の秩序を回復しようと試みていました。当時の偉大な小説などに見られるように、ヴィクトリア朝の人々が[出自からくるものではない]個人の優れた能力に寄せていた関心もまた、階級の垣根を越えた関係を築くことが可能であることを意味していました。

それでも、お金持ちと貧乏人の間に大きな区別ははっきりと存在していました。それでも製造業で財を成した「ニュー・メン」と呼ばれる成金でさえも貴族には軽蔑して扱われましたし、彼らはしばしば貴族階級に受け入れられるために、大金を払って貴族のタイトルを購入しナイトやロードになろうとさえしたのです。お金持ちのための会員制クラブはとても排他的でした。産業革命の初期でこそ工場労働者は自らの努力で実業家となることもありましたが、支払われる低い賃金では貧乏から抜け出すことも難しく、もはやそのような方法で階級の垣根を越えることはほとんどあり得ないことでした。実にイギリスの国土の半分以上をたった2〜300人の地主が所有していたという事実は、かつて一握りの人間が抱えていた莫大な富のイメージを伝えてくれるでしょう。たとえ富の分配が昔ほど極端ではなくなっているとしても、「二つの国民」の問題を解決することがイギリスの政治家たちの優先事項であり続けているのです。...彼らはそのことをディズレーリみたく詩的に表現したりはしませんけどね!

(アレックス・ミドルトン、ペンブルックカレッジ/訳:大込学)


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| コラム | 19:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[コラム]『美学』の交流(2・完)
当時のイギリスと日本の芸術やデザインは、その自然と社会と言う二つの大きな力の間の微妙なバランス関係を見事にくみとり、表現しているといえます。ヴィクトリア朝のイギリスでは人口が急激に増大し、都市が無秩序に拡大してゆく様は目を背けたくとも背けきれない事実になっていました。当時の庭園デザイナーだったエドワード・ケンプは都市から離れた郊外の土地を確保しようとする人たちに以下のように忠告しました。

「ある土地はそこを確保した時にはすごい田舎のようなところに見えるかもしれないが、(中略)数年したらもしかすると(中略)小さな家々や不快な工場がびっしりと並び、小さい路地がそれらの間をぬっているかもしれない。そしてよほどのことがない限りは住む場所としては魅力を失ってしまうだろう。」(1850年)

そのようなことにならないように、ケンプはランスロット・ブラウンがデザインしたような広大な起伏のある庭を否定して、周りの人間や、周りの環境が入り込めないように外界から隔離された庭をつくりました。人間の手がほどこされていない土地はどんどんと減り、減った分だけ価値が高まっていきました。人間と自然との間の距離が大きくなって、シェイクスピアの描いた魔法の森にはいままでには見られなかった神秘性が宿ることになったのです。

これに対して、庭に限って言えば日本人の自然との関係は時にとらわれることなく、深い宗教心に根ざされ、抽象的な表現でもって意思表示をするものでした。日本庭園はほんの一瞬を逃すことなく、その一方で宇宙全体を包み込むことのできるものです。庭をデザインする際には周りの自然の風景を「借りて」つくることで(借景)、庭と自然の背景が一体化した景観を生み、また雄大な山々や壮大な滝などの尊い部分を取り入れているのです。これらの庭のすべての要素は人間の手によってつくられますが、自然に対する強い尊敬の念をもっておこなわれます。

この二つの国の人々の自然に対する見方は空間的にもテーマとしても根本的に別のものが要因となっています。しかし「美学」の面から言えば、1858年をさかいに日本美術の強い影響によって西欧の絵画、建築、インテリアデザイン、織物や版画は大きく変わります。3次元空間に対する視点や構図のつくり方、表現などでの新しいアプローチがラファエル前派やゴシック・リヴァイヴァル建築、耽美主義や非常に多作だったウィリアム・モリスたちに影響を与えたのです。デザインや美術の世界に、平面に対する芸術的構図をかたちづくる時の感受性や、模様や質感の表現の際のあらたなこころみなどが取り入れられました。西欧美術で描かれる自然物はより抽象的に、大胆に表現することができるようになり、模様や配色のいままでにない使われ方がされるようになりました。モリスの作品に応える形で日本でもアーツ・アンド・クラフツ運動が起こりました[訳註:直接対応するものではないが、アーツ・アンド・クラフツ運動は民芸運動の柳宗悦らにも影響を与えている]。

美学の対話は両者の間の類似点や関連する点を挙げることは直ちに大きな成果を挙げるかもしれませんが、より深いところで両者の視点を理解し、結びつけようと試みることが重要です。このことを念頭に置けば、劇に登場する4人の若者たちをもつれ合わせている神秘的な力を表現することができるかもしれません。またそのような表現は日英両国の文化それぞれに相通じるものとなるでしょう。

(セットデザイン:ルーシー・ミニョー/訳:小菅新)

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| コラム | 16:47 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
[コラム]『美学』の交流(1)
本日は、セットデザインを担当しているルーシィさんにデザイン・コンセプトの背景を説明していただきます。19世紀後半から、ヨーロッパに伝わった日本文化は高く評価され、「ジャポニスム(日本趣味)」が流行っていました。これは一方的な、一過性の現象ではなく、その後の日英間の文化的交流を大いに促進することになります。ペンブルックプレイヤーズの『夏の夜の夢』では、二つの『美学』の交流がデザインに取り入れられているようです(実は、衣裳デザインのラフ画なども届いているのですが、それはまた別の機会に!)。

翻訳については小菅新さんにご協力いただきました。本コラムは二回に分けて掲載します。なお、原文をお読みになりたい方は続きを読むをクリックしてください。

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『美学』の交流:
19世紀のイギリスと日本の文化的対話


日本は17世紀の始めから鎖国政策を取っていましたが、1858年8月26日の日英修好通商条約により、イギリスと日本との間で外交・貿易面での関係が築かれることになりました。そしてこの関係は両国の間での深い文化交流の始まりでもありました。

当時イギリスでは耽美主義、つまり美の追求を通じて芸術だけでなく生活面の価値を高め、悪趣味に反して「良い趣味」とされるものの間口を広げようとする運動が台頭しており、その中で日本美術は重要な役割を果たしました。ロンドンのリバティ百貨店は1875年に日本製品の輸入販売を専門とする業者としてはじまり、上流・中流階級家庭であればどこでも日本の版画、せんす、着物や屏風絵などを目にすることが出来るようになりました。西洋の絵画は日本美術によって大きく発展し、また日本の画家たちも西洋絵画の技法を取り入れようとしました。東京の文化的、経済的な営みの中では活発なイギリス人たちの姿が目立ち始め、西洋風な外観の建物や街灯が町並みを彩るようになり、着物を着る女性のほかにバッスルドレスを着る女性も同じくらいいました。[訳注:バッスルドレスとは、スカートの後ろを膨らませてヒップラインを誇張したデザインのドレスのこと]

今回の演目である『夏の夜の夢』の舞台となるヴィクトリア朝ではこうした文化的対話が盛んで、のちの美術やさまざまなデザインに深い影響を与えました。

今回の劇の重要な関係の一つが、「自然」と「社会」との関係です。アテネ社会の厳しい法律とは対照的に、魔法の森では別の力が支配しており、それは下記のようにヒトにとっては不思議で、不可解なものでした。

「(前略)おれ様、何が楽しいといって、万事めちゃめちゃのこんぐらかりくらい、お気に召すことはないのさ。」〔シェイクスピア・著、福田恒存・訳『世界の文学(1)』(1963、中央公論社)p.500〕


(続く)

UK-Japan 2008 WEBサイトに記事掲載!
JUGEMテーマ:演劇・舞台
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"Shakespeare on the other side of the Globe..." Cambridge University Pembroke Players Japan Tour 2008 will perform "A Midsummer Night's Dream" around Japan. The link at the bottom of each article will lead you to the English version. Please forgive any inconveniences, articles are being translated backwards one by one... List of ENGLISH articles.
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シェイクスピア劇を通じた日英交流を目指す、ケンブリッジ大学ペンブルックプレイヤーズの今年の来日公演は「夏の夜の夢」。本公式ブログでは公演情報だけでなく舞台制作等裏話も提供していきます!どうぞお楽しみに!   mail
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